◎近藤勇は三十一二の年恰好で顔の四角い様な、眉毛の濃い、色の白い、口は人並より少し大きい奸物らしき男でした。寺田屋のお登勢を捕へて新撰組の定宿と云ふ看板を出せと剛情を云つたのですが、お登勢も中々しツかりした女ですから承知しなかつたのです。あの壬生浪人と云ふのは謂はゞ新撰組の親類の様なもので、清川八郎が頭で、京都の壬生村に本陣が有つたのです。それで当時は此浪人をみぶらふ/\と云つて居りました。 ◎私の父の墓は京都の裏寺町の章魚薬師の厨子西林寺と云ふ処にあります。お登勢の死んだのは確か明治五年でした。私は東京に居たですから死に目には得逢はなかつたのです、残念ですよ。 ◎海援隊の船は横笛丸、いろは丸、夕顔丸、桜島丸の四ツで、龍馬が高杉(晋作)さんに頼まれて下の関で幕府の軍艦と戦つた時乗て居たのは此の桜島丸です。いろは丸は紀州の船と衝突して沈没しましたので、長崎で裁判が有つて償金を出せ、出さぬと大分八釜敷かつたのです。此時分龍馬が隊中の者を連て丸山の茶屋で大騒ぎをして「船を破られた其の償にや金を取らずに国をとる、国を取て蜜柑を喰ふ」と云ふ歌を謡はせたのです。ホヽ可笑しい謡ですねえ……。 ◎長州の長府(三吉慎蔵の家なり龍馬等其家に寓す)に居た時分直ぐ向ふに巌流島と云つて仇討の名高い島があるのです、春は桜が咲いて奇麗でしたから皆なと花見に行きました。或晩龍馬と二人でこツそりと小舟にのり、島へ上つて煙火を挙げましたが、戻つて来ると三吉さん等が吃驚して、今方向ふの島で妙な火が出たが何だらうと不思議がつて居りました。岸からは僅か七八丁しか離れて居ないので極々小さい島でした。 看護師 転職